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障害とともに生きる決意

「何かを失ったら、何かを得なければいけない」。千葉さんが脳梗塞発症後、ことあるごとにつぶやき、大切にしてきた思いです。この思いを原動力に、あきらめずリハビリを続け、改善によってできることを増やすことと、障害を受け入れてこれまでとは違う方法でできるようになることを模索すること、両方を追及してきました。そんな千葉さんが、情報発信を大切に考えるのは、まさにそれが「病気の経験者だからこそできること」と考えるからです。

大好きな車との別れが障害の受容につながった

前回の記事でも触れましたが、私にとって車との別れは本当に辛いものでした。リハビリ病院入院中に視野欠損により運転を控えるように医師に言われ落ち込んでいた頃、家族から自宅にある車・バイクを一旦なくした方がいいかと問われました。今まで「運転」で生活をしてきた身ですから、はじめは拒否していました。人間性を奪われる感じに近かったからです。しかし冷静になって考えてみました。脳梗塞を発症してから、数か月も使っていない私の部屋・車・バイク。この間にも維持費や自動車保険料は、無駄にかさんでいきます。再び運転するかわからない時に、頑として車を保持する理由が見つかりませんでした。それならばできるだけ早く中古売却をしたほうがいいという答えにいきついた私がその旨を伝えると、父は「末梢の手続きを自分でしなさい」と言ったのです。今思い返すと、これには二つの大きな意味がありました。

一つは、障害を持って生きていく事を実感させるため。自分の手で事を進めることにより、健常な体ではない事実を改めて自分自身が受け止めるからです。もう一つは、実際の企業との電話のやり取りでの実践的リハビリ。伝えたいことをしっかり相手に伝えられるか。そして、相手の言ったことをすぐにメモできるか。振り返れば、その当時にしては、相当レベルの高いことをしていたことに驚きます。

課題を与えられた以上、やらない訳にはいかないのが私の性格。その性格を分かっていてくれたのは親だからこそ。こうして車病院内の通話可能なスペースを使って車を買った所、バイクを買った所、車とバイクそれぞれの取扱保険会社とも話をすすめていきました。車・バイクともに思い入れが大きかったので、別れることは辛く、話を終えたところで泣きそうになったこともありました。これが障害を持つという事なのか。リハビリは順調に進んでいきましたが、諦めなければいけないところもあるんだな、と痛感しました。いくら努力しても、だめなものはだめ。そうした時はできるだけ早く受け入れることが、先へ進む第一歩につながると思います。私の場合、実践的に諦める手続きをする中で、脳梗塞になったことの受け入れがしっかりすすんでいきました。

障害を持つ、障害を越える

自立して生活できるとはいえ、見えないところに障害を持って生活することになりました。「見えない障害」の一つに「天気によって体調が左右されること」があります。自律神経の「気圧を調整する部分」がダメージを受けたので、毎日元気というわけにはいかないのです。低気圧、特に台風クラスの強力な低気圧が近づくと、フラフラしてしまいます。ひどい時には立ち上がれず、吐き気との戦いになります。そういう時は、会社を休むと当日連絡しても大丈夫という事になっています。こういう計らいも同じ会社に戻れた強みです。

さらに、私は脳梗塞以外にも2つの病気を持っています。アトピー性皮膚炎と白内障です。小さい時からかなり重症のアトピーでした。白内障は、長年使用してきたステロイドの影響で左眼に出てしまいました。この左眼は21歳の時に手術して、人工レンズが入っています。現在は手術をしていない右眼にも白内障が出ていて、視力が落ちたら即手術の段階です。両眼とも人工レンズになったらピント調整がうまくできなくなり、「深視力(ピント合わせの能力)」はほぼ無くなるでしょう。これに脳梗塞の後遺症である「視野欠損」が重なりました。正式には「同名半盲」といいます。視神経より内側にダメージ部分があり、それに代わる神経の迂回路が作れないため良くなることはありません。再生医療が進めば良くなる可能性はありますが、開頭して脳の中心部分をいじることになるそうです。そこまでは…というのが私の選択です。そうは言っても、やはり生活は不便でした。今までは好きな時に好きな場所へ行ける生活をしていたので、急にそれできなくなったギャップに苦しみました。移動手段としての「足」を失い、深視力もなくなりつつあり、重症アトピーで掻き傷と向き合う人生だと思うと、一時は落ち込みました。しかし落ち込んで下ばかりを向いていたら、自分自身の足があることにハッと気付かされました。この本物の足を鍛えれば、移動手段としての足の補填ができるのではない…。

こうして自転車に乗るという挑戦、走るという挑戦がはじまりました。特に自転車は移動のための代替手段としての意味合いが強く、じきに私はママチャリながらとんでもない距離を走るようになりました。最初は2~3kmから始まった自転車の走行距離は、30km、50km、75kmと伸び、ついに100kmに到達。その後、母のお墓参りでは130kmを超える距離を行くようになりました。地道にリハビリを重ねた結果、健常な時にはできなかったことをやりとげた。自動車運転を諦めたことによって、ぽっかりと空いたスペースを埋めるにはそれで充分でした。

「何かを失ったら、何かを得なければいけない」。私が信念のように病後つぶやきつづけてきた言葉です。病気の発症によりできなくなったことが多いのは事実です。しかし、「失った」のではなく、新しいことを詰め込めるスペースができたと考えてみればどうでしょう。私が新しいスペースに詰め込んだのは、自転車であり、そしてマラソンだったのです。この文章を読んでいただいている皆さまにも、新しくやってみたいことはあるはずです。このわたしの実体験、そしてB-SUB4プロジェクトの活動記録を見て一歩を出すヒントとしてもらえたら幸いです。

「患者スピーカーバンク」との出会い

姉が「退院して余裕が出たら、ブログをやってみたら?」と提案してくれたことをきっかけに、同じ病気をしている人・家族のヒントとなるように、せっせとブログをパソコンで打ち込んできました。自分の気付きや気持ちを文字に起こして発信することで心の整理ができ、また、指先を動かす練習にもなっていたと思います。私自身の挑戦をブログにアップすることも続け、ハーフマラソンを完走して半年経ったころ、リハビリ病院の療法士さんから提案を受けました。「千葉さんは、強い心で患者として発信している。『患者スピーカーバンク』という団体があるのですが、千葉さんにぜひ体験してもらいたいんです。一緒にその団体のイベントに参加してみませんか?」。その療法士さんとは退院後も付き合いがあって、気になったことがあったら相談してみるという仲でした。最初は軽い気持ちで聞いていましたが、のちにそこのホームページを見て興味がわき、まずはイベントに参加することになりました。イベントの参加者は、健康そうに見える人・目に見えて障害を持っている人など、まさに十人十色でした。よくよく聞くと、健康そうに見える人もがん、内臓疾患、糖尿病などの患者さんが多く、その他に医療従事者・薬剤師さんがいました。そこでは、私と同年代でがんや難病を患っている講演者たちが自分自身の病気のこと、そこから得た教訓を話していました。明日から何か始めてみようとするヒントが多数含まれる時間で、講演者が共通して「前を向いている」ように感じました。それはたぶん、皆、「この病気をしたからこそ、伝えたいことがある」からではないかと思いました。大病・難病はなりたくてもなれるものではありません。できれば罹らないのが願いです。しかし見方を変えれば、罹った場合、数万分の一の確率の特殊な人生を歩むことになります。はっきり言って不便なことが圧倒的に多いです。でも、その人にしかわからない貴重な気付きや経験があります。それを患者の目線から見た「生の声」を伝えていくのが、この患者スピーカーバンクの活動と理解しました。同情を誘うのではなく、「共感」を得て、ともに未来を強く生きていくことがコンセプトなのです。

私は、今までは“脳卒中限定”で活動してきたけど、ここには多種多様の患者さんが集まっている。病気に対しての視野を広げてみたい、その中でわたしも周りの人と成長していきたいとの思いから、会員となりました。

病気になったからこそ。こんな形の社会参加もありだな、と思います。。経験者だからこそ認識できる課題、そのクリアの方法、クリアできた時の喜びを伝えていくことがきっと(今は)知らない誰かのためになるかもしれないと信じています。

執筆者:千葉 豊 執筆者:千葉 豊

1978年、神奈川県生まれ。
大型トラック運転手として充実した生活を送っていたが、34歳で脳梗塞を発症し、片麻痺など後遺症が残る。

リハビリで少しずつ回復し復職に至るも、自身の今後の人生を考えた末、リハビリの可能性を信じ、フルマラソンに未経験ながらチャレンジすることを決意。

2度の大会参加を経て、障がいを抱えながらも挑戦し続けることの意義に目覚め、フルマラソンでの4時間切りを目指して日々トレーニングに励む。

NPO法人「患者スピーカーバンク」など、自身の脳梗塞後遺症体験を語る活動に精力的に従事。

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