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障害を抱えて社会復帰するということ

どうにか自立生活をおくることができる身で退院はしたものの、実際に職場に復帰したのは脳梗塞発症から18か月後でした。焦る気持ちがなかったわけではありません。しかし、ただ復帰を急ぐのでなく、長い目でみての社会復帰を果たすため、千葉さんがおこなったのは職場との入念なすり合わせとリハビリの段階を経て業務遂行できる身体つくり、そして前向きに「どうしよう」か、を考えて実行することでした。

後遺症をうけいれたら道がひらけた!

私は、入院中にできるようになりたい事として「車の運転がしたい」と書いていました。しかし後遺症の視野欠損により、その願いはとても厳しくなりました。診断を受けた私は、その晩この先の事を考えていました。車を運転し、トラックドライバーに戻ることは諦められない、と。しかし、欠けた視野の補てんは、運転席改造ではできません。両目とも右下部分がキラキラして見えません。運転席に座った時に見えなくなってしまう部分…それはドアミラーなのでした。トラックドライバーを経験していたからこそわかるドアミラーの大切さ。たとえ運転ができたとしても、死角が広い状態で運転することは「暴走した鉄の塊を動かしている」ことと同じです。そこまでして運転する選択肢はありませんでした。それならばいっそのこと運転しない生活に切り替えることが、早く日常生活に戻れるかもしれないし、早く復職できるかもしれない。治らないものは治らない、それを素直に受け入れて次の一手を探した方がいいと私は気持ちを切り替えたのでした。

この「脳梗塞」という病気は、時間が勝負と言われる病気です。早めの処置、早めのリハビリ開始が重要となってきます。この考えに基づくならば、症状の受け入れも早く、気持ちの切り替えも早くしたほうがいいと私は考えます。いつまでも「(病前は)こうだったのに」という気持ちでいても、戻らないものは戻らない。早く受け入れて、次はどうやっていこうかを考えることがが、先へ進む一歩になるかもしれません。

私の好きな言葉の一つに「どうしよう」という言葉があります。この言葉、ネガティブにもポジティブにもとらえることができます。ネガティブな考えだと、八方ふさがり・四面楚歌というような、どうやっても抜け出せない意味にきこえます。しかし私は自分で選び放題で、次の一手でどう変えていこうかなという楽しみ、というような意味でポジティブにとらえています。いつまでも「こうじゃなかったのに・これができたのに今は…」という考えを持つよりも、「これをやってみたい・新たにこれをやってみよう」という考えがあったからこそ、結果としてマラソンをやってみることになり、思ったよりも早く復職できました。

ということで、次の一手は「運転しないで生活をすること」に考えを切り替えることでした。幸いなのか…はわかりませんが、私は仕事中に発症・入院となったので「休職」という扱いで退職にはなりませんでした。そして、運送会社には作業・倉庫部門があります。私は気持ちを切り替え、麻痺を持っていても作業部門で復帰をする、という目標でリハビリを始めました。

その気持ちの一押しになった出来事がした。療法士さん2人と私で職場に行き、これから従事する可能性のある家電リサイクル荷役作業を体験しました。再利用可能なものが多く特殊な流れでの処分が定められている「エアコン・洗濯機・冷蔵庫・テレビ」の品目を扱う仕事です。療法士さんに見守ってもらいながら、実際に冷蔵庫を体全体で動かしてみました。…が、右側で踏ん張ることができず、全然力が入りませんでした。無理はできませんので、体験はすぐに終わりました。しかし一生懸命動かそうとしている私の姿を見ていた上司が「待っているからな」と声をかけてくれました。悔しさと嬉しさをおみやげにリハビリ病院に戻りました。

課題が明確になり、復職へむけたリハビリの方針がはっきりと決まりました。会社の方が待っていると言ってくれたことも心強く、これで生活をするんだとわたしも意気込みました。そこからパワー系リハビリの開始です。リハビリ室にある家電を動かすのはさすがに止められたので、みんなが座るイスを動かしました。トレーニング用マシンもあったので、「押す・引く」動きを強化するようにどんどん負荷を上げていきました。椅子の次にテーブルを押したり引いたり持ち上げたりするようになると筋肉痛が発生しました。しかし、麻痺患者にとっての筋肉痛は「うれしい痛み」です。何も反応もしなかった部位が覚醒した証拠ですかです。その後はあえて数日に一回筋肉痛を起こすくらいのトレーニングを意識して行いました。この考えは今でも続けています。トレーニング理論なんてまったく知らなかったのに、自然とこの方法で力をつけてきていました。「これでしか生きる道はない」と必死だったからかもしれません。

社会復帰の自信となった「職場リハビリ」

退院してから一人暮らしをはじめたのは前の記事でもお伝えしました。日常生活を一人でこなしていくことに加えて、数か月後の職場での作業を想定した“仮想・家電リサイクル”の動きも意識して行っていました。休職中も数週間に一度職場に顔を出し、近況報告や職場で“作業”に取り組んでみる時期を話し合っていきました。復職ではなく、職場で“作業”すると書いたのには、理由があります。傷病手当金といって、病気やケガで会社を長期に休む場合、給与の6割が健康保険により保証されており(最大18か月)その対象となったのです。傷病手当金は休職中のみの支給となりますので、給与をもらって復帰すると同時に打ち切りとなります。私は幸い実際の仕事場でリハビリとして作業を行うことができるようになりました。リハビリですので給与はもらわずに、ですが、この間にリハビリでできることを増やしながら、就労に必要な持久力などもつけていくことができたと思います。病み上がりの私が、もし無理やり職場復帰していたら、休みがちになったり、長時間の労働が難しかったりで、給与が大幅に下がってしまっていたかもしれません。職場や医師と相談してこのような対応がとれたことは幸いでした。

こうして実際の職場を使ったリハビリが始まりました。携わることになったのは家電リサイクルではなく、チラシ広告を扱う部門の助手でした。常に上司が行動を共にしてくれる手厚いサポートの中、まずは長い時間働ける練習をはじめました。それができないと復職は叶わないと思ったからです。

私は障害者手帳を持っていません。目に見えない障害は多いのですが、目に見える障害がほとんどないからです。ですので、脳梗塞の後遺症に対しての行政サポートはまったく受けられないことになります。それゆえ、受給している傷病手当が終わる時には、一般人として完全に働けるようになっていなければなりませんでした。社会に放たれるまでのカウントダウンが始まっていました。この「安心」できる環境は限りのある物。そう考えると時間がありませんでした。

仕事場にいる時間を伸ばすことからはじめていきました。8時半から始め最初は午前中まで、次の一週間は午後2時まで、次は3時まで、一進一退を繰り返して3カ月くらいでとうとうフルタイムを想定した夕方5時まで伸ばすことができました。そこに通勤の労力を入れると、家に着いた時にはぐったり、でした。

復職をしようと自宅で考えている人は多いと思います。職種も大事ですが、長い時間働ける練習が必要だと私は思います。この考えに通ずるのが「マラソン」です。はっきりいってマラソンはつらいです。走るのをやめようとする心との戦いです。その心と戦ってやり切った時の爽快感は、働いた後と似ていると思うのです。

ようやく果たした「復職」の時に感じたこと

発症して18カ月、いよいよ復職の時がやってきました。その頃には、フルタイムで働ける体力と自信を得ていました。与えられた作業以外にも、上司らに相談しながら、パレットを本物の荷物に見立てて運ぶ練習や狭いところを通る練習なども積み重ねてきました。腫れ物に触るような扱いではなく、向上心をもった1人の人間として向き合ってくれた職場にも感謝しています。一人で任される行程も少しずつ与えられ、生きる道を得た!という気持ちでした。一時は意識不明で、意識が戻ってからも半身まひの寝たきりだった私が働けるまでになった。障害者が復職することは容易ではありません。でも、それに向けてコツコツと努力を重ね準備をしていくことがその先にもつながることがあります。職場やリハビリを支えてくれる人たちとの対話を十分にしながら切り開いていく事例がどんどん増えていってほしいと思います。

執筆者:千葉 豊 執筆者:千葉 豊

1978年、神奈川県生まれ。
大型トラック運転手として充実した生活を送っていたが、34歳で脳梗塞を発症し、片麻痺など後遺症が残る。

リハビリで少しずつ回復し復職に至るも、自身の今後の人生を考えた末、リハビリの可能性を信じ、フルマラソンに未経験ながらチャレンジすることを決意。

2度の大会参加を経て、障がいを抱えながらも挑戦し続けることの意義に目覚め、フルマラソンでの4時間切りを目指して日々トレーニングに励む。

NPO法人「患者スピーカーバンク」など、自身の脳梗塞後遺症体験を語る活動に精力的に従事。

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