日常生活の中で自力でリハビリを毎日続けるのは難しいときくことがあります。あえて通勤、通院など外出時の道のりをリハビリの時間としてしまうことも生活にリハビリを定着させる工夫のひとつです。今でこそフルマラソンを走りきるまでになった千葉さんも走り始めた当初は1キロの走行でも耐えがたい痛みを抱える状態だったといいます。その後、原因を調べ、対処を考え、一歩ずつステップをあがってきた過程をひもといてもらいました。
リハビリ病院退院が近づいた頃、短い距離を走ってみたことがありました。まるでうまくできていないスキップのようでその姿は走っているものとは程遠く、転ばないように注意することで精一杯でした。原因はわかっていました。早い動きに脳の指令が追い付いていなかったのです。麻痺をすると、脳の指令を出しても「痺れ」というフィルターを1枚通しているような伝わり方をすると、発症初期の記事に書きました。こうして独歩できるようになっても、慣れない動き・早い動きをするときはこのフィルターが指令の邪魔をします。まさに走ることは「慣れない動き・早い動き」でした。
「慣れない動き・早い動きも練習を重ねれば習得できるのではないか?」という思いが、マラソンを始めようとしたきっかけでした。
そしてもう一つ。わたしと同じ脳梗塞患者さんに、体を動かすにあたって不便に思うことを質問した時、「同じ動きを繰り返すことが苦手になった」と言っていました。同感でした。わたしがよく使う表現ですが、「脳が嫌がる」ことで動きをやめようとしてしまい後遺症として、持久力がなくなってしまったのです。これに対して「練習すれば持久力もつけられるのでは?」と思ったことがマラソンへのチャレンジの一端となったのです。
リハビリ病院入院時に知り合って今でも付き合いがあるAさんは頸椎の疾患を経験していました。そのAさんにリハビリがてらジョギングしてみないかと誘われ、早朝の公園で一緒に数キロのジョギングをしました。お互い疾患を持った「患者ラン」です。最初の1キロは痛みもなく順調にジョギングできました。しかしそこからは、お尻の脇が痛み出し、ついには右足を引きずるような歩き方になりました。Aさんは檄をとばしてやる気を奮い立ててくれましたが、わたしはそれどころではない痛みと戦っていました。ジョギングも終わり、帰宅しました。お尻の脇の痛みは3日間続き、その間ずっと足を引きずっていました。
その痛みと向き合っていて思ったのは、「悔しい!痛みもなく走れるようになりたい!」ということでした。この時の思いは今でもわたしの根底にあります。痛くなった場所を調べたら「中殿筋」というところでした。聞きなれない部位でしたので、中殿筋というワードを調べました。バランスをとることなどに使うインナーマッスルに付随するところで、麻痺患者さんにとって独歩に重要な筋肉ということでした。それとともに、鍛えづらい筋肉部位とも書いてありました。
さあどうするか。わたしは日常生活の中で感覚を研ぎ澄ます方法を考えて「リハビリシューズ」として足袋靴を取り入れました。最初は足底がとても薄い不便な靴だなあという印象でした。しかし、足底が薄いことこそが利点で、足底の感覚がつかみやすいのです。慣れというものは怖いものです。今では足袋靴を履いている方が標準の感覚になっていて、ファッション性の高い靴は不安定で履くことが苦手になりました。
同時に、中殿筋の鍛え方・痛めない走り方を試行錯誤していきました。インターネットで調べても、健常な人向けのトレーニングばかりがみつかりました。脳梗塞片麻痺患者の走り方については…情報が皆無でした。今のわたしは走ることで自分の体を知ろうとしている。こうした、わたしのやっている試行錯誤を含めてブログで発信して、麻痺患者向けの走り方大全を作ろうじゃないか!多分誰もやったことのないことだから、これだけ動けるようになったわたしにしかできないと勝手に決めつけ、ブログを始めることにしました。
脳梗塞患者が書いているブログの内容は1日の行動や食事の内容が多いように感じます。わたしは「麻痺患者ならではの不便さ」・「麻痺患者になって気付く体の使い方」・「走りにつながった挑戦の記録」などを記していきました。
走ることに挑戦し始めたきっかけは、Aさんと走った時の中殿筋の強い痛みだったことは前述のとおりです。痛みに負けて走ることをやめるのは、わたしの性格では許せないことでした。その後、1か月に1回ペースでAさんとのジョギングを続けています。楽しく会話をしながら10キロほどジョギングするのですが、そのジョギングを痛みなくのりきるために「移動時に歩く癖」をつけました。自宅から駅までの片道4キロの移動から始まり、離れた病院までの8キロ…そして往復、別の離れた病院までの17キロ…そして往復。こうしてどんどん距離を伸ばしていきました。その中で小走りを入れたりしています。この道のりがそのままトレーニングになっています。
自宅からの行動範囲が狭いと「出かける癖」がつかなくなると考え、通院するだけで半日から1日かかる離れた病院をあえて選んでいます。もちろん、自宅から近くにあり日曜診療もある非常用の病院も控えてあります。通院は、主に現状報告・再発防止の薬をもらいにいくことが目的であるため、基本的に元気な状態で通院ルートをトレーニングに用いることができます。体調に応じてバスや電車を使って通院したり、もっと体調が悪いときは自宅の近くにある病院を使うといった使い分けをしています。こうして「出かける癖」がついたことで、ほとんどの日に外出するようになりました。用事があっての外出もあれば、運動するのみの外出もあります。
はっきり言いますと、わたしはあからさまな「トレーニング」が好きではありません。性格でいうと飴と鞭で伸びていくタイプです。歩いて遠出することは、飴と鞭という意味も含んだ立派なトレーニングとなっていて、目的地まで歩き、目的地近くで食事をすることを楽しんでいます。その道のりが大変であればあるほど、気分がのっていくのです。
この長距離の歩行を紐解くと、序盤・中盤はトレーニング、後半はリハビリとしての位置づけになっています。始めは脳からの指令がちゃんと届いて歩けます。しかしだんだんと脳と体が疲れていくと、歩き方も崩れていくため、そこからが正しく足を運ぶためのリハビリとしての取り組みになりますAさんとのジョギングでも同じことで、疲れて中殿筋に違和感が出始めた時からが、リハビリの始まり。ジョギングの中でトレーニングとリハビリが混在しているのは今も変わりません。
今でこそフルマラソンの4時間切りにチャレンジしている私ですが、いきなりフルマラソンを走れたわけではありません。ましてや病前にも経験がない私はまったくの素人。最初は2キロの大会参加からでした。この麻痺の残った体でも、走ることができるかを試してみたくて、高校仲間が集まって参加する「所沢シティマラソン」で大会デビューしました。ほかの仲間たちがハーフマラソンを走る中、わたしはタイム計測をしないファミリーコース(2km)の参加でした。結果は無事完走。うれしさの半面、悔しいこともありました。ハーフマラソンを走った仲間が、口をそろえて難所の急坂が大変だったと言って話が盛り上がっていたのでした。その会話に参加できないことで、疎外感を感じてしまいました。みんなと一緒に走りたい!、と来年はハーフマラソンを走ることを心に誓いました。時間をかけて体を作っていき、次年度の所沢シティマラソンのエントリーをした時から綿密な下調べを始めました。坂道の位置・傾斜度合、給水所の位置をメモしながら何度も実際走るコースを歩いて下見しました。どのポイントで走りのギアを変えるかなど、しっかりと頭に叩き込んだ状態で本番を迎えました。序盤の急坂で、ギアを落としてやや前傾気味にする…成功しました!意気込んでいてペースが早い周りのペースに巻き込まれないように注意して走っていました。ここで疲れては、21キロを走りきるのに体力が持ちません。下り坂もなかなかの難所です。平坦な道を走っているような足の運び方をすると、スピードが出過ぎて足がついてこず、もつれてしまいます。また着地衝撃が強くなり、足にダメージがたまりやすくケガのもとになります。スピードが出過ぎないようにブレーキをかけながらも、やさしい着地をしなくてはならない。これが下り坂の難しさです。これも成功しました!
実は、所沢シティマラソンは、関東近辺でもトップ10に入るくらいのハードなコースです。平坦な所を探すのが大変なくらいアップダウンがつづく21キロです。13キロ程のところに、500mくらいの激坂があります。下見をしていないランナーたちは、「こんな坂聞いてないよ」と愚痴をこぼしていました。わたしは下見済みだったので、迷わず歩きました。このあともアップダウンが続くので、ここで体力を使い切ってはいけなかったからです。最後の関門を過ぎた時、目頭が熱くなって涙が出そうになりました。今までの努力が走馬燈のようによみがえってきたのです。走っていて感じた痛み、Aさんと一緒に走ったジョギング、何度も下見を重ねた日曜日など。そして発症して右半身が全く動かなかった時のことも思い出していました。このマラソンコースと人生の出来事がシンクロしているようでした。ただの「マラソンへの挑戦」ではなく、これはわたしにとっての大きな人生の1歩だったのです。ゴール近くになって、観客も多くなってきました。このハードなコースに脳梗塞患者ランナーがいて、そして時間内に完走できるとは誰も思っていないでしょう。
そして…ゴール!
気付けば一緒に参加していた高校仲間も数人抜かしていたハーフマラソンデビューでした。タイムを見て驚いたのは、ペースダウンするのが普通の後半のタイムの方があがっていたことでした。考えられるのは、この大会の中で走り方のコツをつかんだということです。この大会のあとは激しい筋肉痛に襲われましたが、これにより走る自信がつきました。違う言い方をすれば、脳梗塞患者でも挑戦してもいいという証明ができました。発症してから150日までが大きく改善できる期間という事は、リハビリ病院にいた頃から知っていました。そこから先は改善のスピードが鈍くなる…でも、改善するための努力をあきらめなければ、悪い方向にはいかない。もしくはそこからでも、どんどん改善することができるとわたしは伝えたいです。それを証明する形が、わたしにとっての「マラソン」でした。その後、いくつものハーフマラソンで経験を積み重ねてきました。