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これからが本番~退院してから生活を取り戻すまでのこと~

脳卒中によるリハビリ病院の入院は日数の期限があり、自立生活をできるまでに改善がみられたか、もしくは期限がきて、退院することになります。それでもなお後遺症がある(多くの)場合は、その後もなんらかの形でリハビリテーションを継続していくことになります。年齢によって使える制度も、後遺症の程度や個人の生活環境によっても、必要なリハビリは異なりますが、日常生活の中で自分の身体に向き合う千葉さんの心持ちを振り返っていただきました。

退院初日から一人暮らしスタート

家に着く前に親・姉とともに、スーパーで食材の買い物をしました。その後、衣類や食材を降ろして親たちは帰り、わたしは一人になりました。退院初日から一人暮らしがスタートしたのです。
これにはちょっと理由がありまして…。本来ならばリハビリ病院の退院が近づいた頃、親の家で1泊をする「宿泊練習」をする予定でした。しかしその前日に、親の家族の一人が急病となり、わたしに病気をうつさないためにと、宿泊練習は中止となってそのまま退院の日を迎えてとしまったのです。酷な事をしていると思われるかもしれません。しかし、入院中に独り立ちできるような練習をしていたので、それほど重く気に留めませんでした。袋に入れた重いものを握って歩くこと、1日のスケジュールを紙に書いてその通りに生活を送ること、入浴をしてそのままお風呂場を掃除することなど。これらをすでに入院中にしていました。水面下で練習を重ねていたことになります。
退院してからのぶっつけ本番、家に向かう途中は自信満々でした。しかし家族と別れて一人になったとたん、一気に不安になりました。話す人が近くにいない…困ったことも自分自身で解決しなければいけない…すべてが自己責任なことに怖くなってきました。でもこれはわたしが決めたこと。どう生活を自分色に染めていこうかという期待もありました。

一人暮らしをするために交わしたルール

一人暮らしをするにあたって、姉とルールを決めました。数か月の間、毎晩メールをすることでした。無事であることを伝える生存確認のためです。この脳梗塞という病気、再発をしやすい病気でもあります。それはリハビリ病院でも、口酸っぱく先生たちに言われていました。正直今でも、再発するんじゃないかという恐怖はあります。それを懸念した対策が、このメールのやり取りでした。堅苦しい文章ではなく、今日こんなことがあったよという気軽なものでした。そして数か月間は、1~2週間ごとに親や姉家族が様子を見に来てくれました。その時はにぎやかになって楽しいのですが、彼らがいなくなった後の空虚感は少しつらかったのを覚えています。わたしは高校卒業後の18歳からずっと一人暮らしをしていました。これが自分らしさを取り戻す一番の近道と信じて、この空虚感も大切なリハビリになると、数か月間耐え忍んでいました。

1日をできるだけ計画的に過ごす

一日ダラダラ過ごしても誰にも注意されないですが、それに慣れてしまってはいけないと思っていたので、スケジュールを立てました。朝の7:30に起床。昔から朝は非常に弱く1時間かけてゆっくりしないと外出できないので、ゆっくりと朝食を摂りました。もちろん朝食を作ることなどできるわけもなく…主に前日に買ってあるパンを食べていました。9時頃から行動を開始。1日一か所の掃除と決め、この日はトイレ、この日は台所というようにやっていきました。一気に全部掃除していたら、疲れ果ててその1日は終わってしまいます。一人ということで、無理をすることは最小限に抑えないと命取りになってしまいます。

10時頃から外出、主に散歩をしていました。脳梗塞を発症する前は車での移動がほとんどだったので、家の近所は限られたところしかわかりませんでした。それゆえ、この散歩は「探検」でもありました。今日はここら辺に行ってみよう、別の日はここを目標にして行ってみようという感じで、毎日ルートを変えていました。トラックドライバーをしていたことで、脳内にカーナビが備わっていて土地勘・地理は鋭かったのでした。散歩は雨の日でもやっていました。だんだんと散歩する距離を伸ばしていって、週1・2回は半日歩くこともあり散歩という領域を超えていました。午後は散歩途中で図書館に寄ったり、スーパーで食材の買い物をしたりして帰りました。

図書館では脳梗塞に関連する本を読み漁りました。脳梗塞の種類・発症原因(わたしは「原因不明」)・若年性脳梗塞という存在は、この図書館で知り得たものです。スーパーでの買い物もリハビリの一環になりました。まずは何を作るか・何を買うかというところから考えます。買い物カゴを持ちながら、売り場を歩くハイレベルな行動に最初は苦戦しました。会計も、財布から小銭を出すのは苦戦しました。思うように指が動いてくれなかったからです。日が暮れる夕方には家に戻り、夕食を作れるときは自炊をしていました。誰も見ていないですが、しっかりと料理を作る。そういう気持ちが大事だと思っていたからです。あまり外出したくない日もあったので、1日かけてカレーを作った日もありました。体調がすぐれない日は、さすがにお弁当でした。退院当初は自炊の割合が少なかったですが、日を重ねるごとに1週間のうちの自炊の割合が多くなっていきました。疲れやすいという後遺症で(易疲労)、夜の10時には就寝していました。

「まずはやってみてから考える」

実はリハビリ病院退院間近に始めて、結局できないまま退院してしまった未完成の動きがありました。それは「右手で傘をさしながら歩くこと」でした。歩くことに集中してしまい、傘を持つ手に集中が行かなくなります。立ち止まって傘をさすことは問題なくできますが、いざ歩き始めると傘を持つ手が安定を失い傘が倒れてしまいます。健常な人は集中をうまく分散できますが、わたしは一度に1つの行動しかできない一点集中型になってしまったようです。同時に2つ(以上)の事をすることをデュアル(マルチ)タスクと言いますが、それがうまくできないまま退院していたのです。家族からは、雨の日はなるべく合羽を着るようにと言われていましたが、わたしは雨が降る日は、チャンスとばかりに合羽を着ながら傘をさして散歩することにしました。周りから見たら、少々おかしく見えたかもしれません。しかし恥じらいはリハビリ病院で捨ててきましたので、これくらいでは恥ずかしいと思いませんでした。

なかなか傘のバランスが取れない日々が続きました。ある晴れた日に公園を散歩する際、周りに危険がないので、イヤホンで音楽を聴いていました。すると音楽を聴いていない時より歩き方がぎこちなくなりました。最初はなんでだろうと、疑問に思っていましたが、これもデュアルタスクだと気づきました。音楽を聴くことによって、歩くことの集中が分散するようです。他にも心当たりがありました。脇を駆け抜ける救急車のサイレンに反応して歩き方が乱れる。祭りの縁日やお囃子の音に反応して歩き方が乱れるなど。そんなささいなことで、と最初はがっかりしました。でも考え方を変えれば、音楽もリハビリに使えると思いました。このアプローチで、傘を差しながら歩くことができるかもしれない!そういう期待も込めて、危険がないところでの歩きでの移動は、イヤホンで音楽を聞いています。最初はぎこちなかったですが、だんだんと集中が分散できるようになりました。効果は大いにあったのです。

その後、雨が降った日に、傘を右手でさして歩きました。短い間でしたが、歩きながら傘のバランスをとることができました。自分の力で考えたリハビリが成功したことにうれしくなりました。ここからはやればやるほど、歩きながら右手で持つ傘のバランスをとることがうまくなっていきました。

リハビリ病院での右箸の使い方・歩きながら右手で傘をさすことの練習は、どちらも自力で習得したものです。先生に言われたことを従順に守ることも大事ですが、自分自身で考えて考えて、そしてやってみることも大事だと思います。周りに相談できる人がいれば、どんどん相談することをお勧めします。そこからはアイディアが出ればすぐにネットなどで調べ、実験しての繰り返しでした。もともと勉強することが好きだったようです。資格でいうと危険物取扱者や運行管理者は参考書のみの勉強で免許取得しました。とくに運行管理者に至っては、発症後に取った国家資格となります。これは、調べること・勉強することが脳にいい影響を与えている証明でもあります。

こういう考えがあったからかもしれません、いろいろな事を恐れずにやっています。カラオケ(声帯にも後遺症の影響があったことに気付き、声帯を痛めない呼吸法を練習)・ボウリング(重いものを握って、タイミングのいいところでリリースする練習)・二輪の自転車(脚力・バランス感覚を鍛える素晴らしいトレーニングマシン)・水泳(水中ウォーキングから始めて、平泳ぎ・クロール・背泳ぎができるまでになる)など、いずれも自力で考えて実験して、そして習得しました。リハビリ病院でこれらの行動の練習までたどり着くことは難しいと思います。日常生活が問題なく送れる状態になった段階で、退院となるので。退院後も先生とつながりがあれば、アドバイスはもらえるでしょう。でもやるかやらないかはすべて「自分」にかかっていると、わたしは思います。

脳梗塞患者だからできないと、やらないで決めつけるのはわたしの性格上いやでした。まずはやってみてから考えればいいじゃん、失敗するのは当たり前。プロのアスリートだって、最初はできないところから始まったのだから。そう考えれば少し気が楽になるのかなと思います。

外出時の工夫

外出する際は「交通弱者」であることをアピールしないといけません。そのために、シャツの色は、目立つように原色系を着るようになりました。明るい色を着て車を運転する人に気付いてもらうのです。暗くなる前に帰宅を心掛け、できなかったら懐中電灯を持って歩いています。懐中電灯は光っ放しのタイプより、点滅機能があるタイプの方が認識されやすいです。、つまずいても両手でカバーできるように、また突発の買い物に対応できるように、リュックサックで移動するようになりました。両手が使えることにより、歩くときのバランスもよくなります。
いずれも自分を守るためです。わたしはファッション性よりも、安全性をとっています。
また、リハビリ病院入院中はわからなかった症状に外出するようになって気づきました。散髪に行ったとき、冷たい刃物にビクンビクンと反応してしまったのです(温度過敏)。はさみで反応、顔そり用のかみそりにも反応。これではまともに散髪ができません。理容師さんと考えた結果、刃物をお湯で温めてから作業をやってもらうことで刃物に反応することがなくなりました。症状を伝えたことで対策を一緒に考えてもらい、こうして理容室にわたしのカルテができました。
(我慢)できないものは素直に伝えること、それで見放す人はいないとわたしは思います。

ついに復職、そして引っ越し

発症してから約8カ月して、職場に戻りました。復職という形になります。最初は体力の事を考えて、午前中のみの勤務でした。その理由の一つに、自宅から職場までが遠かったことがありました。徒歩・電車・バスを乗り継いでの通勤だけで疲れてしまいました。交通機関をスムーズに乗り降りする練習にはもってこいでしたが、さすがにラッシュ時間の通勤は体にこたえます。働くならしっかりとフルタイムで働きたいと職場の近くに引っ越すことを決意しました。もう一人で生活しても問題ありません。
この引っ越しは、完全に自力で事を進めました。不動産会社をたずねての家探し、手続き、家財運搬車両の手配、段ボール箱に家財を詰めていく作業など。これらをすること自体が相当面倒でしたが、頭を駆使するリハビリとして一つ一つ進めていきました。行動すればそれはすべてリハビリ、それは一生続くと先生に言われていたので、望んでこれらをやっていたことになります。

引っ越ししたことで、職場までの通勤がだいぶ楽になりました。ほぼ道一本で迷うこともありません。そこを歩きや自転車で通勤しています。通勤ラッシュというストレスもありません。ただ一つだけ難点が…駅からだいぶ遠いので、休日の行動で駅に着くまでが時間がかかってしまいます。でもこの引っ越しにより、フルタイムで働けるようになりました。今では頼まれれば残業をするくらいです!逆に体調が悪い時は、自転車を使って10分で帰宅できます。

執筆者:千葉 豊 執筆者:千葉 豊

1978年、神奈川県生まれ。
大型トラック運転手として充実した生活を送っていたが、34歳で脳梗塞を発症し、片麻痺など後遺症が残る。

リハビリで少しずつ回復し復職に至るも、自身の今後の人生を考えた末、リハビリの可能性を信じ、フルマラソンに未経験ながらチャレンジすることを決意。

2度の大会参加を経て、障がいを抱えながらも挑戦し続けることの意義に目覚め、フルマラソンでの4時間切りを目指して日々トレーニングに励む。

NPO法人「患者スピーカーバンク」など、自身の脳梗塞後遺症体験を語る活動に精力的に従事。

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