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入院生活~ストレス、転倒、そして家族のこと~

後遺症により以前はできていたことができないことに気づくことから入院生活が始まります。検査とリハビリを繰り返す毎日の中で、トラブルに見舞われつつも、転院を経て、自分の置かされた状態や家族との繋がりを理解していくことになります。

入院生活が始まる

命をつないでくれたこの病院には感謝しています。意識が戻った時は、1人部屋でした。音による脳の刺激も負担になる状態とのことで、医療者・関係者(家族)しか部屋に入れない病院側の配慮でした(実はこの一人部屋にしたことがあだになります)。片麻痺とはいえ左半身は健常なので、片手でできることは自分でやっていました。片手で大変だったのがトイレでした。時間はかかりましたが尿瓶が自分でセットできたので、トイレは誰の力も借りず自分自身の左手のみでやっていました。普通、尿瓶は両手で使うもの。それを片手でやると安定が保てずに尿をこぼしてしまうこともしばしばありました。それゆえ、この病院ではオムツを履いていました。まさかこの歳で(34歳)オムツの世話になるとは思いませんでした。便の方は、強烈な便秘になってしまいここの病院では出ませんでした。

食事は、最初から固形食で、ここの病院ではスプーンとフォークでの食事でした。右手が麻痺しているので、左手スプーン・フォークでした。顔の右半分も麻痺していたので、口の中の食べ物が麻痺側に流れていきました。対策として、顔を傾け重力を利用して口の中の食べ物を中央に寄せていました。口に入れてから飲み込むまでが時間がかかったのを覚えています。

この病院はわたしの住んでいるところから遠く、父・姉家族も高速道路で1時間かけて病院に来て身の回りの世話をしてくれました。みんな仕事などがあったため、毎日は来られませんでした。いろいろと会話をしましたが家族曰く、まともな答えが返ってこない時があったそうです。失語症の一つ「錯語」があったからです。思っていることと言っていることが異なってしまうのが錯語となり、単純な物忘れとは違います。たとえば、リンゴをみて「電気(明かり)」などと意識せず言ってしまいます。思っていることとあべこべなことを言ってしまう、コミュニケーションがうまく取れない自分へのいらだちを感じました。顔も右半分麻痺していたので、言葉がうまく発音できませんでした(構音障害)。わたしから見た視界は二重三重になっており、誰かを認識するのも大変でした。まるで図鑑で見たことのある昆虫の複眼の視界のようでした。時間が経てばこの症状も治まると医師から言われていましたが、正直この視覚の問題はかなりのストレスがたまりました。

面会は毎日ではなかったので、1日1人だけの時は寂しかったです。刺激を与えるのは良くないということで、テレビを観ることは禁止でした。1日中病室の天井を見ていると、わたしは「一体何でこんな目に合わなければいけないのだろう」と思ってしまい、自分へのいらだちを感じました。

午前中は検査。午後はリハビリの毎日

1日のスケジュールは、まず朝起床して体温測定を行い、午前中は検査がメインでした。移動する際はベッドに寝たままで、常に上を向いた状態での移動していました。どこに移動しているかはさっぱりわかりませんでした。診察もベッドの上で、正直何をされているのかわかりませんでした。親たちには「これ以上の回復は厳しいかもしれません」と告げられていたそうです。午後は痙縮防止のリハビリメインでした(脳卒中片麻痺を起こすと、筋肉の使い方もリセットされるようです)。

この病院で受けたリハビリは、主に体が固まらないようにする痙縮防止ためのマッサージに近いものでした。体を動かすというやり方も忘れているため、療法士さんが体を動かしてそこに脳からの指令をかけるというものもありました。手足ともに痺れが強く感覚がわからない状態で、触られているのかも動かされているのかもわかりませんでしたので、手足のリハビリは本当に効いているのか、というのが本音でした。でも後になって痙縮を最小限に抑えられたのは、この病院でのマッサージ的リハビリの効果があったからだと気付きました。リハビリを行うとすぐに疲れてしまい、数時間起きて数時間寝るという生活が続きました。覚醒状態を維持するための脳の持久力もなくなったようでした。

ある時から家族が転院のための手続きを進めていたことを聞いたのは、リハビリ病院退院後でした。わたしは小さい時からアトピー性皮膚炎がひどく、都内の大学病院に通院していました。面会できる回数を増やしたいことと、医療設備が整った大学病院に転院させてあげたいという親たちの強い願いで、大学病院の医師に頭を下げてくれていたそうです。実際入院していた病院の看護師・助士さんの数が足りておらず、1人でも欠けたらサポートが行き届かなくなるだろうとわたしでも感じるくらいでした。これが医療の現実なのかと知ったら、ナースコールも押しづらくなりました。発症してからの2週間ほど経ったある晩、わたしは事件を起こしました。

ベッドから転落!

発症してから数日たったある夜中、わたしは寝むりながら夢をみていました。どうやら発症する前の、四肢問題なく動く頃の夢をみていたようです。

ふと目覚め、尿意を感じたので起き上がろうとしました。しかし寝ぼけていたせいか、その夢の中の四肢自由に動く状態であると勘違いしていました。一方、現実の体は右半身片麻痺。これはとても危険な状態でした。何を思ったのか麻痺の体で身体を起こし、なんと立ち上がってしまったのです!頭の中ではまだ右半身が動かないことを受け入れていなかったように思います。たとえるなら、手足を切断してしまった患者さんが、切断した部位があたかも存在しているように感じる幻肢(げんし)の症状が近いのかもしれません。

片麻痺にも関わらず立ち上がり、前に進もうとしたため、バランスを崩してしまい、すぐに転倒しました。点滴を引きちぎりながらベッドの後部の柵を乗り越えて、落下してしまったのです。そして非情にも転落防止の柵に足が引っ掛かり、足が上、頭が下のとても危険な体勢になってしまったのです。ベッドの後部ということで、ベッドの前部にあるナースコールはどうやっても届きません。頭に刺激を与えないように配慮してくれた一人部屋がここであだとなりました。麻痺側の右足が引っ掛かったので、どうやっても抜け出せません。わたし以外誰もいない暗い部屋で助けを呼ぶこともできず、わたしはパニックになっていました。このまま死んでしまうのかもしれないと。その間にも血液が頭に集まってきて、だんだんとぼーっとしてきました。本当に危険な状態になってきたようです。そうかと思うと、今度はパニック状態から急に冷静な状態になりました。このまま死んだら楽になるのかな、という気持ちになってきていました。冷静になったぶん、脳梗塞を発症してから今までの数日間を思い返すこともできました。この病院・医師がわたしの命を救ってくれた、そして亡くなった母もわたしの背中を押してこの世界に戻してくれた。自分ひとりの力だけではなく、多くの人の手を借りて生還することができた。今ここに生きているのは、何か意味があるのかもしれない。わたしはその意味を知りたい!ここで命を終えてはいけない!!

そのような思いがよぎった瞬間、大声で「助けてください」と叫び続けました。顔の筋肉の麻痺による構音障害ゆえ、周囲には「たぁふけてぇくだふぁい」と聞こえたでしょう。聞こえが悪いなんて恥ずかしいことを考えている余裕はありませんでした。とにかく叫びました、命をつなぐための魂の叫びを!!頭に血液が集まってきてだんだんと頭が痛くなってきました。それでもかまわずに叫び続けました。夜は看護師さんの数も少なくなるので、声は届きづらく、叫び続けて15分ほどでしょうか、隣の病室の患者さんが気付いて患者さんのベッドからナースコールを押してわたしの部屋の異変を伝えてくれたようです。わたしの病室に入ってきた看護師さんがわたしを救出してくれました。看護師さんの顔を見て安心したわたしは、緊張のゆるみでおしっこを漏らしてしまいました。転落する前にトイレで起きたからです。笑い話に聞こえますが、それほど切羽詰まった状態に追い込まれていたという証明になります。

救出された後しばらく目が離せない状態として、ベッドごとナースステーションの前に移動することとなり、そこで1~2日過ごすことになりました。何がこの事件を起こしたか?体が動かなくなった事の現実を、脳が受け入れていなかったことが原因だと思います。時間をかけてだんだんと体が動かなくなるならば、脳もそれに対応できたでしょう。しかし、ある日突然右半身が全く動かない状態になってしまったら、脳もパニックになり受け入れるものも受け入れられなくなっても無理はありません。発症してからの数日は現実を脳が受入れ切れていないと思いますので、面会とともにしっかりした監視の目も張った方がいいと強く言いたいです。わたしのような事件を起こさないためにも。

転院で感じた「家族の闘い」

入院から約2週間、家族の想いは叶い都内の大学病院に転院することになりました。(家族はここの病院にかなりの不満があったそうです。)その頃のわたしは、リハビリの甲斐あって右足が少し動くようになっていました(蹴る動作のみ)。

転院の日、わたしの体は、ベッドから搬送用のストレッチャーに移されました。転落防止の柵がないだけでも少し恐怖感があったのを覚えています。どこを通っていたのかわかりませんでしたが病院の外に向かっていることはわかりました。玄関で医師・看護師さんとあいさつを交わし、搬送車に乗る前に初めて病院の外観を見ました。その時に涙を流しそうになりました。この病院でいろいろな事が起きて、そして去っていく。卒業式で巣立っていく生徒のような気分になりました。約2週間の短い期間で、人生が大きく変わった気がします。運転中に脳梗塞の前兆が起こり、救急搬送されて病院に着いて意識喪失、意識が戻り右半身・顔も麻痺して動かないことを知る。事件も起こしましたが、回復の兆候も出てきた。この2週間非常に濃厚な時間を過ごしての巣立ちということで、このことに感極まったのかもしれません。

搬送車にストレッチャーごと乗り込み、後ろ向きで搬送されました。後ろから家族の車もついて来ていることがわかりました。しばらく車が走っていると、だんだんと都内に近づいていることもわかりました。都内に入ってから、搬送車のドライバーが道に迷っていたようなのですが、この時わたしはこの体で起き上がることができずに後ろが見えているだけだったにも関わらず、そのドライバーに道順の指示を出しました。大きい通りは何度も何度も通っていたので、ちゃんと記憶に残っていました。トラックドライバーとしての記憶はしっかり残っていたのです!後の話になりますが、このことは同じ職場の復職に向けての自信につながるきっかけとなりました。

病院を出てから2時間ほど経ち、搬送車は大学病院に到着、すぐに脳神経内科の診察になりました。診察の結果、特に搬送による影響はなかったので、スムーズに大学病院に入院することになりました。
家族の強い願いは叶いました。家族や親族の想いは特別なもので、回復に向かうためなら何でもする、という強い気持ちを感じました。患者本人闘っているけれど、家族も本人からは見えないところで闘っていたのでした。わたしの病気によって、家族同士の連帯が強くなっていたのは間違いのない事実です。

初めてのMRIでわかったこと

大学病院に入院したとき部屋は4人部屋でした。まず驚いたのは、ご飯がおいしかったことです。病院食もだんだんとしっかりした固形食になってきて、食の楽しみが増えてきました。経過も落ち着いてきたということで、テレビを観ることも解禁になりました。久しぶりに観たい番組もあったので、より1日のスケジュール感覚にメリハリがでてきました。

1日の過ごし方は前の病院とあまり変わらず、午前中は入浴・診察メイン、午後はリハビリがメインでした。この病院に来て初めてお風呂に入りました。浴室に看護師さんがいる時は、最初は抵抗がありました。恥ずかしさがあったからです。大学病院ということで、より詳しく診察・検査をしました。脳画像では前の病院ではCTのみでしたが、ここで初めてMRIを撮りました。この機械はどうしても大きい音が出るみたいで、音を遮るためのヘッドホンをして検査を受けました。ヘッドホンをしてもガンガンうるさかったことを覚えています。機械も大きくて威圧感がありました。(脳画像添付)

MRI脳画像

数日後にMRI画像を見て梗塞した箇所を見ました。中心の大事な部分が変色していて、脳幹部から視床という部分がダメージを受けていました。すごく小さい部分のダメージなのに、生死をさまようほどの症状が出るとは信じられませんでした。後から姉に聞いた話ですが、MRI画像を見て医師に質問しているわたしの言葉は錯語だらけだったそうです。この自分自身の脳に二度と機能しない部分があると思うと、自暴自棄になりそうな思いがありました。
医師は「100%とはいかなくとも、リハビリをすることで動きを取り戻せる」と仰っていましたが、「どういう理屈で動きがもどるんだ?」と、半信半疑の気持ちが拭えませんでした。もう一つ大変な検査がありました。心臓エコー検査、心臓の方に異常はないかを調べるために、生まれて初めて胃カメラを口から飲みました。調べる部分は心臓、胃ではなく食道でカメラを止めたので、強烈なえづきが出て苦しくて涙が出ました。この検査は二度とやりたくないと思うほどでした。

採血・心電図・そして心臓エコー検査など、なぜこのような多くの検査をしたかというと、「若年性脳梗塞である」ということに理由があります。多くの脳梗塞発症の原因が生活習慣病なのですが、若年性の場合生活習慣病が原因ということがはあまりなく、外傷性や遺伝的な要素が大きいようです。そして、外傷性は原因が明確ですが、遺伝的要素は原因が特定しづらく、原因不明という診断が多いのが若年性脳梗塞らしいのです。わたしの場合も、やはり診断結果は「原因不明」でしたが、遺伝的要素なのだろうということはうすうすわかっていました。祖母・母ともに脳血管障害で亡くなっていて、いわば大きな十字架を背負った家系なのかもしれません。でもそれに怯えた生活をしていたら、なにもできなくなってしまいます。とにかく今を一生懸命に生きる!この一言に尽きるのかもしれません。

執筆者:千葉 豊 執筆者:千葉 豊

1978年、神奈川県生まれ。
大型トラック運転手として充実した生活を送っていたが、34歳で脳梗塞を発症し、片麻痺など後遺症が残る。

リハビリで少しずつ回復し復職に至るも、自身の今後の人生を考えた末、リハビリの可能性を信じ、フルマラソンに未経験ながらチャレンジすることを決意。

2度の大会参加を経て、障がいを抱えながらも挑戦し続けることの意義に目覚め、フルマラソンでの4時間切りを目指して日々トレーニングに励む。

NPO法人「患者スピーカーバンク」など、自身の脳梗塞後遺症体験を語る活動に精力的に従事。

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