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リハビリ病院奮闘記~こうして私は改善を果たす~

病院での生活の大きな目的は、早期のリハビリによる機能回復です。「修行」とも思えるようなコツコツとした努力を積み重ねて、少しずつ手足や言葉の機能が改善していく姿は、同様の疾患・後遺症を抱える多くの方々の参考になるのではないでしょうか。

入院初日にいきなりのトラブル

父の車でリハビリ病院に転院、医師の診察などをして、リハビリ病院の入院生活が始まりました。ここでの生活は基本自分ですること、できないことは看護師さんが補助して生活をすることがルールみたいです。もちろん車いすでの移動も。そこで早速リハビリ病院の洗礼を受けてしまいました。

前に入院していた医療病院では、看護師・助士さんが車いすを押してくれていましたが、このリハビリ病院では、基本車いすは自分自身でこいで移動します。それゆえ、最初に車いすの扱い方を練習することになりました。やってみると片麻痺でも車いすはこげました。ブレーキのかけかたも教わりました。練習を重ねるうちに、少し慣れてきたので、1回立ってから車いすに座ってみようとしました。ステップを跳ね上げて立ち上がり、座ろうと車いすに体重をかけたところ、車いすが後ろに移動!わたしはしりもちをついてしまいました。

ナースステーションの前だったのですぐに対応してくれたのですが、看護師さんに注意されてしまいました。原因はブレーキのかけ忘れでした。医療病院では看護師さんや助士さんに任せきりで、そのくせが抜けていなかったのです。ここでの安全は自分で守らなければならないのだということを体をもって学びました。日常生活に戻ったら、たいていの事は自分自身で行わなくてはいけません。ここはそのための訓練所でもあります。その日はそこで転んでしまったので、あとはベッドにいました。悔しかった一方で、いよいよ生活を送るための訓練が本格始動したのだと実感しました。

1日の大まかなスケジュール

朝の6時に起床、看護師さんがまわってきて検温。8時に朝食開始、医療病院での食事は自分のベッドの上でしたが、ここでは患者さんが各々食堂に移動し、みんなで食事をします。各自の座る席は決まっていて、そこに時間までに着席するルールです。時間になっても来ない人は、体調が良くないか二度寝しているかで、担当の方が患者さんのベッドまで伺うことになっています。朝食は栄養士さんが考えてくれていて、大まかな献立はあっても患者さんごとに量や味付けも変えてあります。隣に座っていた同じ脳梗塞の患者さんは、「わしら脳梗塞の患者は、薬の関係で納豆を食べちゃダメなんだ」(ワーファリンのことだと思います)と言っていたことを覚えています。

食事を終えて、9時から12時まで50分単位で3回分のリハビリ枠がありました。昼食をとってから、13時から17時まで50分単位で4回分のリハビリ枠がありました。もちろんすべての時間リハビリをすることはありません。1日の中で最大3枠がリハビリの時間となっていました。空いた時間で、衣類の洗濯・入浴する時間も割り振られているので、リハビリが空いている時間はすべて自由に使ってくださいというわけではありませんでした。夕食は18時から。本当でしたら夕食前後に入浴してゆっくりしたいのですが、そういかないのが病院生活です。本当に自由になれる時間は、夕食後から22時の消灯時間だけでした。

歩行訓練~車いすから歩行器まで~

先生に教えてもらった片麻痺での車いすの動かし方は、練習すれば片手でも十分に自分自身で扱えるものでした。前進・後退・曲がる、といった動きのイメージは、ショベルカーのキャタピラと言ったところです。ここでトラックドライバーの勘が生かされました。キャタピラの動きや車両感覚を熟知していたので、ほんの数時間の練習でマスターすることができました。
車いすに乗ってわかったことなのですが、ちょっとの段差でも先に進むことは大変なことです。もし路上に木の枝が落ちていて進路をふさいでいたら、それだけでも苦難の道になります。しかしこの病院のフロアには通行の障害になる段差はありません。ここで不自由なく過ごすことができたとしても、いざ屋外に出たらちゃんと操作できるかの自信はありませんでした。それでも練習を行うことで、しっかりブレーキをかければ車いすからベッドの移動もで切るようになりました。

この頃のリハビリは脚の筋肉の覚醒マッサージから始まり、平行棒状の手すりをひたすら往復していました。その往復に対して、先生が助言をしてはトライしての繰り返しでした。麻痺側の脚の動かし方をすべて忘れてしまっているので、失われた能力を取り戻すというよりも、動かし方を始めから覚えていく考えの方が近いと思います。今までやったことのない新しい動かし方を教えてくれる先生として接していたので、少々難しい課題も素直に聞いてトライしていたため、どんどん課題をこなし覚えていくことができました。

平行棒状の手すりの移動が問題なくなってきた頃に、車いすから歩行器を用いた移動に変わりました。いよいよ自分の脚を使った移動が始まりました。車いすにはブレーキがついていましたが、歩行器にはブレーキはついていません。そこに恐怖感がありました。最初は歩行器に必死にしがみついていたので、健側(麻痺でない側)の左手が筋肉痛になりました。すべての移動はこの歩行器に変わったため、車いすはもう頼れません。歩行器移動に少しでも早く慣れるため、リハビリ時間以外でもフロアを何度も往復していました。その結果、指でそっと支える程度でも歩行器を扱えるようになりました。

その頃になると、歩くたびに何かを気付くようになっていました。具体的なことはわからなかったのですが、何かを感じ取っていたのは間違いありません。ちなみに洗濯ものをする際は、歩行器の調節用ネジに物を引っ掛けることができたので、そこに洗濯物を入れた袋を引っ掛けて洗濯機のある部屋まで移動していました。

歩行訓練~歩行器から独歩まで~

実は医療病院(急性期病院)にいた頃も、杖を使った歩き方の練習は少ししていました。医療病院では杖を使って歩くことから始め、最終的に独歩に移行することがゴールでしたが、このリハビリ病院では、歩行器の練習後から独歩に移行するプログラムが組まれました。病院別・症状の程度別はありますが、杖で目指すか歩行器で目指すかの微妙な時期にこのリハビリ病院に転院してきたので、結果両方の使い方を体験することができました。

歩行器は独歩に向けての練習にはもってこいだと思いますが、屋外で使用するには実用的ではありません。真っ平らなフロアのみなら大いに活用できますが、車いす以上に段差には弱いと感じました。そして問題なのが「かさばる」ことです。リハビリ病院にあったものはある程度部品は外せますが、フレームは一体型で折りたたむことはできませんでした。収納という観点で考えれば、杖と比べると一目瞭然です。屋外であまり歩行器を使用している人を見ないのはそのためかと思います。
その一方、体調・リハビリの進み具合に柔軟に対応するのは歩行器の方が優れていると思いました。歩行器に変わった初期の頃は、ハンドル部分をしっかり握って操作していました。リハビリが進むにつれ、歩行器のハンドル部分を握っていた指を一本また一本と離していき、重心を歩行器寄りから自分の体に移していきました。こういったプロセスでのリハビリは、杖では難しいです。

歩行器の歩き方も自分の体重寄りになってきたので、リハビリの時間は歩行器無しの独歩に移行しました。やはり最初は怖くて、よく先生にしがみついていました。リハビリの時間は、独歩の時間・距離を伸ばしていきました。たとえるなら、子供の成長の2足歩行の練習に近いかもしれません。リハビリは「恐怖心を取り除く練習」でもあります。たぶん誰でも初めて行う動作には恐怖を感じます。いきなり立ったり自転車を乗る子供はいません。ほとんどの子供が恐怖心と戦い打ち克って、立ったり自転車に乗れるようになります。独歩の練習も、恐怖心を取り除く要素が含まれています。歩くことは「怖くはない」ことを先に覚え込めたのは、歩行器のおかげなのかなと思っています。そうしてリハビリも進み、病院内の移動も歩行器が外され手すりを使っての移動、手すりをあまり使わない移動、そして何も頼りにしないで自力で歩く独歩ができるようになりました。
そこからは、空いた時間があればひたすらフロアを歩いていました。食堂を起点として1日150メートルくらいは歩いていたのかもしれません。見舞いに来てくれた高校の友人は私の事を「Mr.ストイック」と呼んでいました。

動き始めた手と指

手のリハビリについては、動き始めた頃にこのリハビリ病院に転院となったので、ほぼゼロの状態から始めました。神経の開通は体の中心から始まり末端に向かって伸びていくということで、まず腕を動かすことからリハビリは始まりました。
与えられた課題は「イスに座ってのテーブルの雑巾がけ」。指の形は意識しないで(まだまともに指が開かない)腕を前後に動かすだけでした。これだけのことでも神経に刺激を与えるようで、右手を動かすと健常な左手が動いてしまう不随意運動が起きていました。その時は先生が左手を抑えて雑巾がけをしていました。シチュエーションもさまざまで、平らなテーブルを前後に、テーブルに置いた傾斜版を前後に、はたまた立った状態で柱を上下に雑巾がけしていました。もちろん左手に不随意運動が起こらないように。この病院ではリハビリ時間以外にやる宿題が多く出されました。その中の一つが壁・柱の雑巾がけを毎日数回やることでした。

ここでいくつか宿題の内容を紹介します(主に手先の練習)。
紙に描いてある円を右回り・左回りで指でなぞる、プラスチック製のコインをつかみ、違う位置に移動して置く、お手玉をする、ひもを蝶結びするなどです。その中でも苦労させられたのが「ペグボード」でした。多くの小さい穴が開いた板に栓状の小さい棒(ペグ)を差し込むというものです。これが難しくて、今でも大変だった思い出の一つとしてはっきり覚えています。別のところに置いてあるペグを指でつかんで、指だけで照準を合わせてボードの穴に差し込む。これだけの動作なのに、うまくできませんでした。悔しかったです。それゆえ何度も何度もトライしました。新しい動き方を覚えるという考えだったので「できなくて当たり前、何度も練習して成長する」と自分自身に言い聞かせてリハビリをやっていました。
練習した結果、次のステップに移行しました。別のところに置いてある数本のペグを手の中に入れ込んで、ボードの穴に差し込む。手の中に入れた一本のペグを、指を使って1回転させてボードの穴に差し込む。できるだけ早くペグをボードの穴に差し込むタイムトライアル。大変だったけど、今こうして文章を書いているのは、ペグボードのおかげかなと感謝しています。新聞紙を丸める動作、粘土をこねる動作、とうとうはさみを使うこともできるようになりました。麻痺側の手で刃物を使うことにはリスクが伴います。それを克服した形の一つになります。

その後リハビリの時間を使って、先生たちと料理も作りました(焼きそば・カレーライス)。屋外リハビリの時間で、近くのスーパーで食材の買い物をしてからの調理という流れでした。包丁を右手で握って食材を切ることもできるようになりました。行動するだけで刺激が入ることに、気持ちよくなっていました。これが「リハビリという意味」なんだと実感していた時期でもあります。部署は違えども同じ会社に戻れそうなので、力を使うトレーニングも始まりました。運送会社ということで、完全なガテン系です。力が出せないと話になりません。ある程度手が使えるようになってからは、マシンを使ったパワー系トレーニングも並行して行っていました。

言葉で伝えたいことを伝える「修行」

リハビリ病院に転院してきた時も顔の形は左右で異なり、右側が引きつっていました。しゃべることはできましたが、顔が引きつっていたためにうまくしゃべることができませんでした。構音障害というものでした。脳梗塞を発症したことにより顔の筋肉もすべてリセットされ、表情や口の形が作れなくなっていました。発症した初期の頃、口に入れた食べ物がすべて麻痺側に流れていたのは顔の筋肉の使い方がわからなかったからです。医療病院では時間をかけて食事をして、ある程度食べ物が流れることは少なくなりました。

リハビリ病院に転院してからは、表情を作る練習から始めました。リハビリの時間の序盤は、口の中に先生の指を入れて笑顔を作る練習をしました。人生の中で、他人の指が口の中に入ることはそうそうありませんが、わたしもその体験をした一人です。不思議なことに、口の中に指が入ると笑ってしまいました。楽しくもないのに笑ってしまいました。どうやらここでも不随意運動が働いてしまったようです。先生が「笑わないようにしっかりやって」と言っても、この不随意運動が止められませんでした。でもそのおかげか、笑顔を作ることは思ったよりも早くできました。

そこからは笑顔を作ることの応用で、言葉の発音の練習をやりました。ここでも宿題が出されました。空のペットボトル(500ml)をくわえて口をすぼめる練習、「う」の口の形の練習です。これがかなり顔の筋肉を使い、すぐに顔の筋肉が痛くなりました。疲れ・痛みをともなうリハビリには苦労がありましたが、その苦労の先には確実な「動作の習得」がありました。リハビリの時間・宿題でうまくしゃべれるようになりました。

しかし、他にもまだ行うべきリハビリがありました、錯語のリハビリです。思っていることと違うことを言ってしまう対策のリハビリでした。これは英語の練習のように、フリップに描いてある絵をひたすら正しく答えるものでした。最初は間違った答えを連発していました。リハビリを続けているうちに、正しく答えていけるようになりました。図形と同じ形をパズル要素で作っていく脳トレ風リハビリもやりました。文章の作り方の練習・1日のスケジュールの作成と、生活に基づいた考えの練習をしていきました。料理をするために食材の買い物をすることは、この練習があったからできたものです。

自分で解決できたことが自信になる

今もそうですが、発症する前のわたしはアパートで一人暮らしをしていました。数カ月空いていたわたしの部屋、置き去りの家財。その中にリハビリに使えそうなものを思い出して、姉に頼んでいくつかわたしのところに持ってきてもらいました。携帯できるゲーム機(DS)とソフト2つ、本と紐でした。遊ぶためではありません、ソフトは脳トレと英語を読み書きするものです。脳トレを30分、英語の読み書きを30分、リハビリ時間以外の自主練に取り入れました。本の題名は「いろいろなロープの結び方」、それを見ながら紐を結んでいました。蝶結びより先の応用を自らやっていました。その結果、ボートを岸のポールにくくりつける「もやい結び」ができるようになりました。

そして食事の時間もリハビリを自ら課していました。右手で箸を使う練習を、本物の食材を使ってやっていました。ここで、医療病院で覚えた左箸が「先生」となってくれました。左箸の指の使い方をじっくり見てから、右手でまねをする日々を続けました。右スプーン・フォークを覚えこんでから右箸を覚えていきました。時間はかかりますが、確実な動きを覚えていくという意気込みは強かったなと、当時を振り返ると思います。

リハビリ病院は約3カ月入院していましたが、ほぼ3カ月使って右箸をマスターしました。これはリハビリの先生が教えることだったみたいですが、それを自力でマスターしたことになりなす。自力で改善できたことで、正しい手順を探して自力でやってもいいのだ、という自信がつきました。

退院に際して親への感謝を伝えることができた

この頃になると、わたしの思っていることはしっかりと相手に伝えることができました。手・足・発音・考えもしっかりしてきたので、親に今のわたしの気持ちを伝えました。
倒れてからここまでサポートしてくれたことの感謝。片麻痺で寝たきりの状態から、ここまで動けるようになった報告。わたしはこの先何か大きいことをするかもしれないという示唆。これからも一人暮らしを続けるという意気込み!
そう、わたしはあえていばらの道を選びました。普通に退院して細々と誰かのお世話になって生きていく。わたしの性格なのでしょうか、それはまっぴらごめんと心の中で決めていました。この性格については親もわかっていたようです。反対することなく黙ってうなずいてくれました。

わたしのリハビリに対しての取り組み具合、そして誰もが認める日常生活を送れる能力。事実、先生には障害者手帳は発行されないレベルになっていることを告げられていました。実際には見えない後遺症がいくつかありましたが、生活を送れるということで約3カ月入院していたリハビリ病院を退院することになりました。退院時も親の車で移動することになりました。入院する時と違い、すべて自力で車を乗り降りできるようになっていました。担当の先生たちに別れを告げて、次のステージである一人暮らしへと進みました。数年たって、リハビリ病院でわたしを知っていた先生に言われたことがあります。「千葉さんはこの病院で退院した患者さんの超成功例です」と。

執筆者:千葉 豊 執筆者:千葉 豊

1978年、神奈川県生まれ。
大型トラック運転手として充実した生活を送っていたが、34歳で脳梗塞を発症し、片麻痺など後遺症が残る。

リハビリで少しずつ回復し復職に至るも、自身の今後の人生を考えた末、リハビリの可能性を信じ、フルマラソンに未経験ながらチャレンジすることを決意。

2度の大会参加を経て、障がいを抱えながらも挑戦し続けることの意義に目覚め、フルマラソンでの4時間切りを目指して日々トレーニングに励む。

NPO法人「患者スピーカーバンク」など、自身の脳梗塞後遺症体験を語る活動に精力的に従事。

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