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脳梗塞発症から病院で目覚めるまで~母がこっちの世界に戻してくれた~

34歳という若さで、ある日突然脳梗塞を発症した千葉さん。脳梗塞を発症した時の経緯から、どのような症状があったか、後遺症が残った事実に対する内面のお気持ちなどについて語っていただきました。

突然の発症。薄れる意識の中で、自分で119番

わたしは20歳代から十数年トラックドライバーをやっていました。2t車からデビューして、4t車・大型トラック…いっときは大型トレーラーまで運転していました。大きいトラックを運転するための免許も順調に取得していき、仕事内容も順調に習熟していき、週2回の中・長距離運行も任されるほどになりました。体力的につらい日もありましたが、若さと経験で乗り切っていました。公私ともにストレスはないと自分は思って生活を送っていた34歳、それは急に起こりました。

ある日、東北から関東までの長距離運行の帰り道、関東圏内に入って数時間の仮眠をとって起床したときに少々のめまいがありました。そのときは、「まだ疲れが残っているんだな」という程度で考えていたので、運行を続行しました。しかし、運転し始めてから30分ほど過ぎたときに、突然前兆が起きました。

起床したときに少し感じていためまいが、運転中にも突然起きたのです!グワングワンと視界が上下に揺れて、まともに運転できない状況になりました。後で調べたところ、「眼振(がんしん)」という症状でした。危険と察知してすぐに徐行し、眼振が収まったところで大型トラックを道路の端に停車しました。車両ということで、停車後すぐにシートのリクライニングを倒して休憩しました。まだ疲れが抜けていないと思ってしばらく目をつむっていました。

しかし、どんどん気持ち悪くなってきたので、これ以上の運転は危険と判断して会社に電話しました。どんな会話をしたか覚えていませんが、けがはしていないものの、ものすごく気持ちが悪く、これ以上運転できないこと、現在地や車両の状態を伝えました。その間にも、気持ち悪さはどんどん増していきます。会社にヘルプの電話ができたのだから、今のうちに自分でできることはやろうということで、すぐさま119番通報を自分でかけました。自分の体に起きている異常の内容や、トラックで停車しているおおよその場所を伝えてから携帯電話のスイッチの「切」を押しました。そうこうしているうちに、視点は定まらず、上下左右がわかりづらくなるうえに、とうとう痺れが現れました。やることはやったはず。後はどうなるかわからないけど、被害は最小限に抑えられた。あとは野となれ山となれだ。眼振にくわえて気持ち悪さ、痺れがましていく中でも、やることはやったという達成感がありました。痛みはなかったので、冷静でいられる自分もいたかもしれません。

このときは、まだ自分が脳梗塞という事を知らず、予備知識があったわけではありませんが、それにもかかわらず自分の行動は「Act FAST(早く行動せよ)」の「T」だったと言えます。この「Act FAST」は、アメリカの脳卒中協会の市民啓発キャンペーンで提唱されている脳卒中発症時の行動指針です。その中の「T」は「Time(時間)=時間が大事」という意味で、できるだけ早く救急車を呼んでくださいという意図があります。このように自分がまだ動ける状態で救急車を呼べたことが幸いし、今の自分があるのかもしれません。

数分後に救急車が到着。もはや自力で歩くことができなくなっていたので、救急隊員に抱えられながらトラックから降りました。電話口ではちゃんと要件を伝えられたのですが、救急隊員の質問に何を答えていいのかわからないくらい面倒くさくなっていました。言葉が出てこなくなっていたのかもしれません。救急車のサイレンが車内だとすごくうるさく、静かに走ってもらいたかったけど「うるさい」という言葉が出てこなかったのを記憶しています。幸いすぐ近くに自分を受け入れてくれる病院が見つかり、その病院に着いた時に張りつめていた緊張が解けたのか、意識が無くなりました。そこからの数日間の記憶はありません。

意識を失いましたが、結果最善の形で119番連絡をして救急車を呼ぶことができました。脳梗塞の症状を疑うことも大事ですが、躊躇することなく救急車を呼ぶことも大事です。脳梗塞は時間勝負、できるだけ早く処置をすることで人生を左右する結果が変わりますが、今思えばわたしも時間との勝負に勝つことができたのかなと思います。

意識回復から初期治療の経過

何日間意識が無かったのだろう?気付いたら病院らしい天井を見ていました。なぜ「病院らしい」という言い方になるかというと、その時の自分の視界は二重・三重になっていたため、何かを認識するには時間がかかったからです。後で聞いた話ですが、発症初期の症状で視界が重なることがあるそうです。そばにいた姉が自分の意識回復に気付き、その時に自分が「脳梗塞」であることを知りました。家族(父・姉)の証言によると、意識不明の期間も家族の質問には答えてはいたようです。食べることはできず、父が自分の口に詰まった食べ物を指でかきだしていたようです。実は付きっ切りで看ていた親が脳梗塞を疑い、医師に告げてもらって初めてCTをとってみた結果、脳梗塞と診断されたのです。

意識を戻した時にまず体を触ってみたのですが、どこにも手術痕はありませんでした。どうやら脳梗塞と診断されてからの処置は、手術ではなく血栓溶解療法(t-PA)だったようです。初期治療中は意識がなかったのですが、ステントではなくt-PAで間違いないでしょう。

経緯についてまとめると、トラック運転中に発症、意識が無い時に診断が下り、そして意識が回復して病気を知るに至るまで、数日かかってしまいました。運転中にTIA発症し、症状がひどくそのまま意識喪失。入院中に脳梗塞の本発症、t-PA静注により死は免れるものの、意識も取り戻したが初期症状に苦しめられる、というのが病院で目が覚めた、という流れになります。

「この症状と付き合っていくのかと思うと悲しくなった」意識を取り戻してみたら壮絶な症状。周りにいた人は意識を戻したことに喜んでいましたが、同時に落胆もしていたように見えました。自分自身はというと、たしかにいくら頑張っても動くことのない右半身に落胆したのは本音です。しかし、周りにいた人よりも落ち込むほどではなかったにせよ、深刻に考えることもできない思考回路になっていたという表現のほうが正しいかもしれません。

意識を戻してから日を重ねるごとに頭が整理されていき、自分自身に起きたことの深刻さを感じるようになってきました。これからこの後遺症が残る体と一生付き合わなければいけないのか、そう思うと悲しくなってきました。

意識を取り戻した時に感じている視界のダブり、右半身手足の麻痺、右半身の冷え、顔も右側が引きつったようになり、考えることも大変で言葉もあべこべなことを言っていました。視界のダブりは2~3週間続きました。右手足は、動かす意識をかけても全く動きませんでした。たとえるなら、痺れという強いフィルターをかけられた状態で脳の指令が途中でかき消されてしまうイメージでしょうか。科学の授業で「電気の流れ」の実験があります。電池を脳、電球を動かしたい部位とします。電池から流れた電流は、電線を通り電球を明るくします。しかし、電線の一角に絶縁体(ゴムの塊)を噛ませると、絶縁体の電気抵抗で電流が流れなくなり、電球がつきません。ここでの絶縁体は痺れとなります。これがその時の自分の感じた表現です。

右足は発症約10日後、右手は発症約1か月後に動き始めました。顔の麻痺もひどく、鏡で見た右側の顔は自分とわからないくらい引きつっていて、常に痺れっぱなしで、感覚はありませんでした。意識が戻ってからは固形食でした(意識不明の時も序盤は固形食だったそうです)。口に入れた食べ物の半分くらいは麻痺側に流れていったのを覚えています。食べ物を舌の中心に押し返すやり方もわからなくなっており、もちろん痺れで食べ物の位置もわからない状態です。顔の痺れが弱まって口の中の食べ物の位置が分かったのは、発症2週間後でした。

「母がこっちの世界に戻してくれた」

姉から聞いた「脳梗塞だよ」という言葉。この言葉には、わたしにとってとても深い意味があります。自分の祖母は脳梗塞を発症、自分の母はくも膜下出血を発症、開頭手術で命をとりとめたが水頭症の影響で脳梗塞発症。祖母も母も脳梗塞で亡くなりました。自分の中では「脳梗塞=死」というイメージしかありませんでした。その中で自分も同じ病気を発症したけれど、こうして現に今生きている。家族は口をそろえて言っていました。「母がこっちの世界に戻して来た。川を渡ってくるなと追い返した」と、確かにそうかもしれません。自分はまだやるべき事があるという気持ちがありました。2人は亡くなりましたが、自分はこうして生きている。果たしてその意味は??

意識を戻した当時は答えがわかりませんでしたが、今こうして文章を書いていることが答えの一つなのかもしれません。

執筆者:千葉 豊 執筆者:千葉 豊

1978年、神奈川県生まれ。
大型トラック運転手として充実した生活を送っていたが、34歳で脳梗塞を発症し、片麻痺など後遺症が残る。

リハビリで少しずつ回復し復職に至るも、自身の今後の人生を考えた末、リハビリの可能性を信じ、フルマラソンに未経験ながらチャレンジすることを決意。

2度の大会参加を経て、障がいを抱えながらも挑戦し続けることの意義に目覚め、フルマラソンでの4時間切りを目指して日々トレーニングに励む。

NPO法人「患者スピーカーバンク」など、自身の脳梗塞後遺症体験を語る活動に精力的に従事。

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